懐かしいの坂下.探索.5.
賤母発電所を見学しましたら・・チヨット懐かしい写真が出て
きました
昭和初期時代
外車に乗って写真を一枚・・真ん中の女性は叔父の姉です
マル十の賤母支店に行った時の写真です
国道19号線での写真ですが発電所は道を下った所にありました
奥に何件か家が見えます賤母地区です..同級生が何人もいましたよ
店長の時代も賤母地区.田立地区の学童は学校の近い場所に
通学していましたよ.おかげで沢山の友達が出来ましたね
父の運転する車(マツダの三輪.ドアが無くて.鉄の棒がドア代わり)で
賤母支店とか望仙桜まで付いていきましたね・・
19号はガタガタ道でガードレールなどは無くブロックが何メートルか
に置いてあるだけで.たまにトラックと出会うとガタガタと父が
難しいそうにギアを入れ替えて道すれすれに止めてました
はるか下側を木曽川が流れていて怖かったね・・
昭和45.6年位の坂下大巻地内
SLが煙一杯吐いて木曽方面に走っていますね国鉄の近代化
が進んでいた時で右上の方に新しい橋の工事途中が見えます
この辺りは夏になると何処とから人が来て川遊びをしていますよ
賤母.対鶴橋.霧が渕.とちょうど良い川の流れで途中で浅瀬もあり
泳ぐには最高に良い場所で特に霧が渕は昔から水泳教室なども
行っていましたよ..夏休み町内会になると必ず
霧が渕で飯盒炊飯を・・楽しみの一つでした
画像のSLが走っている場所から少し下側が犬帰線(県道6号)で
工事の橋の少し上から木曽川に向かって下った所が霧が渕で
長野県との県境です・笹.竹薮を掻き分けて降りていきます
砂浜も少しあり.川向かいには飛び込むには.ちょうど良い岩が
あり流れも緩く.そこそこに深い所でしたね
上には田立の滝からの川が流れ込んでいるし.瀬もあったので
鯉.大川.うぐい.鰻がいました.夏は家にいる時間より木曽川に
いた時間の方が長かったよ.

昭和49.50年位
賤母側から見た対鶴橋と中古で買ったばかりのアルファです
ボートみたいな・・で霧が渕まで・・
先ほどの犬帰線(県道6号)を長野県方面に向かうと田立地区で
昔から坂下と交流が深く田立は坂下の一部としてみていました
旧田立の町を抜けて行くと途中なんども田立バイパスに
ぶつかりますバイパスの最後が田立ダムです
昭和33年に出来たダムです直ぐ近くに国鉄田立駅がありました
近くに売店に料理旅館(紅葉館)ができました
駅から降りて直ぐに緩やかな坂が矢走橋.に続いていました
小学校の2.3年位でしたか.田立ダムまで遠足で
川のそばで弁当を食べましたね

昭和32.3年頃
田立の矢走橋.開通式でおんたけバスが田立〜坂下までの運行
を始めて.国道19号の西側から訂正東側の入り口が出来て
坂下が交通便利になりましたね
当時.対鶴橋(大正7.8年)を含めて長野県に掛かる橋は
弥栄橋(昭和10年)訂正昭和7年.田立の矢走橋(昭和33年).握りのつり橋(昭和10年)で
馬車や車が通れる橋は田立の矢走橋と弥栄橋だけでした
矢走橋は幅4.5mで長さ2.30m位の鉄骨の立派な赤い橋でした・
握りにかかるつり橋は誠にお粗末な橋..10年頃はこれでも充分
だったのでしょう.木曽川の氾濫で34年に架け替えられましたが
またしても昭和58位だったかに流されてしまいました
ちょうど店長も消防団に入ってた頃で怖かった覚えがあります
賤母日陰にレストラン(グリーンシズモ)がありましたがこれも
流されてしまいました.もともとこの地は田立ダムを作った残土で
埋め立てた所でしたので地場が弱かった

握りつり橋
画像右は昭和10年頃のつり橋と左は33年に架け替えが終わったつり橋
母の実家が握りでしたので何度も用もないのにつり橋を渡った
覚えがありますが..ちよっと怖いですね・・
このつり橋は握に.沢山の蚕種製造所があり中でも
田口杢次郎氏.加藤才次郎氏が風穴貯蔵を行っていました.
美坂にある.風穴に蚕種を保存する物で180日位は保存出来たそうです
美坂の風穴は日本三大風穴と言われていました
蚕種の運搬はとてもきつい仕事で.最短距離の山口側につり橋を
架けました.これがつり橋の始まりです
今は幅は狭いが車も通行できるリッパに橋になっていますね
乙姫橋も出来て便利になりました特に握.外.高部地区
の人達は中津川方面に行くには早く行けますね
今の乙姫大橋
手前の岩は乙姫岩で浦島太郎の伝説の地です
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つづきは次回で お楽しみに