懐かしいの坂下.探索.14.
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今回・坂下町で超貴重フィルムが発見されました.持ち主は故原正三さんです.
大正10年位のフィルムです.最初に漫才座が写されています.漫才座は明治22年に現在の
福徳神社あたりに建てらました・・(宮前通りに面したところ)
これは下組には神明座.合郷組には若宮座寄があり・町組にもと.建てられたものです・
(坂下探索9.10.11.)に載せてあります.稲田亭から始まり.明治館になり漫才座に至りました
こけら落としは大正8年1月15日でした.もともと原茂一郎(上松や)が興行をおこなったのは
坂下神社でやぐらを組んで寄席小屋を行っていたものが始まりで.後に原興行をおこして
明治.大正.昭和と活躍しました.この中で松井市太郎の名前が出ています.市太郎は松井善八の長男で
稲田亭.明治館の設立に一枚加わっています.善八は松井長次郎(隠居)の長男で.運送会社を行っていました
中牛馬会社として明治16年の取り扱い量が載っていました.発荷0個・着荷三百二十八個.とあります
善八の弟は金助で金助は明治12年8月に分家を行っています.現在の丸十商店です
坂下和紙.草履.を売り.止め宿なども行っていました.現在の食料品などを取り扱いだしたのは
大正9年から鹿之助に変わってからですね.好景気に沸いた大正時代です.
少し戻って.上松やに.丸十も年貢を支払っていましたからね.おそらく宮前通りの一部.本町の一部は
上松やに年貢を払っていたのでは・・(かなり羽振りがよかったです)
次に本町通りが移っています
おそらく大阪屋さん辺りから取られた物と思われます.向こう正面はたけやさんです
左の店は野村か藤川屋さんですね.藤川屋さんはもともと新町にあって本町に移転してきた店です.
駅はそのままですね今もあまり変わりないですね
左の建物は岩井屋旅館です.(現在の吉村書店)と村瀬か丸石運送さんです.このガソリン式消防ポンプ車
は町上げての購入でこの時代に2度の大火で住民を守ることで購入したそうです
また本来は車両に丸印の中に坂の字が入るはずが間違って阪の字になっていたそうです
隣の中津町は大正4年にガソリン式消防ポンプ車が入っていましたよ
次に小学校の運動会です
懐かしい第一校舎が写っててますね.向こうに.高い煙突が見えます.おそらく本町の曽我(新家の工場)
徐々に生徒が増えて.グランドが狭くなり.一時は中河原で運動会を
行っていたそうです.校舎は店長の時代も使用していましたね・・・グランドも広げられて.
第一校舎の跡に.職員室と屋体が真新しく建ち.奥に保育園も建ちました(昭和27年頃)
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大正時代の 町並みの見取り図です



本町通りです.画像左の一番端の下側に実家の丸十がみえます
画像真ん中・中津銀行坂下支店と隣かんこばがありますかんこばは.飛騨からの女工さん達の
お気に入り商品を並べて売っていました.前の弓矢さんは.この時代オートバイを乗り遠くは飛騨
高山あたりまで取引をしていて.発送する馬車が店の前に何台も並んでいたそうです
年末になると飛騨の女工さん達を荷物と一緒に運んだそうですよ
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新町通りです.福沢桃介が通った大島屋.八千代もみえます
古くからの通りで.料理旅館.飲み屋街で賑わっていました
玉突きの店もありました.店長の時代も小さなパチンコ屋がありましたね
画像右の一番下側の松井さんの所に今度新しくレコード喫茶42カフェがオープンします楽しみです
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伝馬町通りです.坂下の銀座通りで.今でも道幅が広くて綺麗です
明治42年からの通りで.岩島屋さんの前にある柳は今も一緒で風情があっていいですね
画像右のすし彦さんの隣の隣芸姑置屋としてある場所は一世風靡した立花屋さんですね
木造三回建てのりっぱな建物でしたが大正2年の大火で燃え尽きました
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島平通りです.江戸時代から変わらぬ通りです
明治時代には学校の上に役場があり.狭い通りにいろんな店がありました・また
本通は三角屋から下の濃信社通りで上の通りは明治の42年以降に伝馬町通り・とつなげた通りです
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大沼町通りです.比較的新しいとおりです
もともとは伝馬町だったのが.件数が増えて.独立した通りです.
大明館があり.園原医院もあり.狭い通りで.ぎっしりと詰まり賑わしい通りでした
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乙坂通りです.
古くは飛信街道の難所だったのかな・・なんで乙坂なんだろう.濃信社通りから
一気に登る道が乙坂だったのかな・中津新道が繋がった事で.にわかに.賑わしく
なり.ここを通り坂下橋(明治33年)西方寺通りに繋がっていき.握りを通り木曽川沿いに瀬戸村へ
難所たる瀬戸の12曲がりを抜けて川沿いに行き.玉蔵橋を渡ります
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西方寺通りで.歴史の古い通りです.
坂下橋が出来た事により.握にあった沢山の蚕工場.田口.宮内.加藤.など女工さんたちの
行き来が便利になり
またここでの生糸の取引所もありました.阿弥陀仏が残っています
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つづきは次回で お楽しみに