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懐かしいの坂下.探索.4.
コヒーを飲んで・・続きですが新弥栄橋渡り信号から256号通りに
2.300m位に左側に仙里があります
本家が望仙桜でして..料理は自慢で.食事.宴会.ついでにカラオケも出来ます
ご飯物はうまいし・値段も安いし..生ビールも・・
昭和25年頃の新聞から
桜を見ながら湯に入れます・・少し高台にあり.まこと
桜を見るに絶景の場所で木曽川を真下に眺め当時から.よく
はやっていました・・現在も 営業していますので 寄って下さいな
そこからすぐ斜め下に下りる道がありますので
賤母発電所に行けますよ
賤母発電所を探索しましょう.
大正から昭和には公園と言うと恵那峡.落合ダムの桜.賤母の桜.田立の滝.
などが有名で保育園時代は近くの賤母公園まで遠足でした.
小学校では坂下ダム(田立ダム)に滝.落合ダムも遠足で行きましたね
大正末期〜昭和の初め頃
上の方に橋が見えます.国道です.賤母公園まで道沿いに桜が
沢山植えられています.まだまだ車で観に来る人はいなくて
坂下の駅から徒歩で本町.新町.東町を通りそこから下に
対鶴橋を渡り公園に行きましたね
昭和初期の頃
丸十の賤母支店.大正から昭和初め頃
19号線から写した時です.奥の方に木の橋が見えます
この橋は昭和8年に架け替えています

対鶴橋の名づけ親は桃介で帝室林野管理局(後の帝室林野局)の長官
であった南部光臣の家紋が鶴が向かいあったことからです
賤母発電所が出来て間もない時で橋の真ん中に線路が敷いてあります
発電所を造る為に資材を運んでいました.右から3人目の人が
叔父です・・
当時としては大きな建物でモダンな建物でしたので
昭和初期の頃
何処かに行くにも.写真を撮るにも.必ずと言って良いくらいに
賤母発電所.公園が写っていました..
一番下の段で右から4人目が叔父です
桃介は火力 1遍では炭鉱業者に死命を制せられいろいろの故障
で採掘が中止したり輸送に途絶える.これからは水力による
発電を・九州の水力なんぞ・馬のしょんべん・みたいなものや
俺はこの木曽川を征服して天下の電気王に・なってみせる
と言ったそうです・八百津の発電所を造り次は賤母発電所
大正7年頃の賤母.木曽川沿い
真ん中の洋傘を立てている人が桃介です
桃介は何度も坂下に来て案を練っていたそうです
当時事務所は新町の料亭八千代の隣の森さん宅の部屋を間借
しての仮事務所でした・こうして難題を解決しながら
水路式の賤母発電所が出来ました
発電所近くには公園も出来.売店(実家の賤母支店)出来て
桜の咲く頃は人が一杯しました
写生大会賤母支店
協賛が名古屋新聞(中日新聞の前身)でした
店員さんも沢山いて.花見の時期は大忙しで猫の手も借りたい
ほどでしたと.聞いてます.賤母の丸十の田楽を食いに行くか..が粋な話
だったそうですよ
前列右から2人目が叔父です同じく前列左端は実家近くのお姉いさん
です・・
現在
綺麗な発電所です
夏になると毎日位にこで水泳したり.魚を取ったりして
遊んでいました..小3.4年位になると横断することに
なっいましたので.昔は川幅が広くて流れもありました
上級生達に見守りもらい ながらの 必死に泳ぎ向こう岸に
また.こちらに向かって泳ぎます.流れがありますので.かなり
下の方に着きます
対鶴橋は10人以上.一緒に渡れませんと.書いてあります・
・・昔から書いてありましたよ.

対鶴橋は昭和25年2月に大雨の為流失しています.
この年の9月14日に修復完成して.渡り初め式を行っています

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つづきは次回で お楽しみに